「大黒天に白兎」葛飾北斎筆
Photograph © 2015 Museum of Fine Arts, Boston
ワニたちをだまして海を渡ろうとし、深手を負った白うさぎを旅の途中に助けた大国主命の物語、「いなばの白うさぎ」。「古事記」にも描かれたこのエピソードが、北米先住民の伝承神話にも存在していた。「アジアで生まれた神話の一体系がまず日本に伝わり、そのあと北米に伝わったのではないか?」。この人類学者クロード・レヴィ=ストロースによる仮説を、宮城聰率いるSPACがいま、演劇的想像力で読み解いてゆく!文化はどのように伝承し、根源にある魂はどのように受け継がれていったのか。世界の理(ことわり)に壮大な翼を広げた野外劇が幕を開ける!
ケ・ブランリー美術館は、ルーブル、オルセー、ポンピドゥーとともにフランスを代表する美術館であり、「非ヨーロッパ圏芸術の殿堂」と呼ばれるなど独特な存在感を示している。2016年に開館10周年を迎える同館からの委嘱により、SPACが記念作品を製作し、同館内にあるクロード・レヴィ=ストロースの名を冠した劇場で上演することが決定した。実は同劇場のこけら落としでは宮城聰演出『マハーバーラタ~ナラ王の冒険~』を上演しており、その成功を目撃していた同館館長から熱いラブコールが寄せられたのだ。宮城と長年創作をともにしてきた最強チームがつくる最新の祝祭音楽劇を、パリでの世界初演に先駆け、野外バージョンとして静岡・駿府城公園でプレ上演!
うさぎは沖の島からワニを言葉巧みに並ばせ、渡る途中で皮を剥がされ大国主命(オオクニヌシノミコト)に助けられる。「いなばの白うさぎ」では海を渡るのはうさぎで、「古事記」にある大国主命の物語のサイドストーリーに過ぎないが、北米神話では主人公の兄弟の物語として描かれ、兄弟はヘビの背に乗り川を渡り、最後に一人がヘビにのみ込まれてしまう。気位の高い渡し手(ワニ、ヘビ)など共通項が多く、両者はひとつの神話体系の中にあると考えられるが、日本より遅れて北米に伝わったため物語が凝縮されたのではないか――。このレヴィ=ストロースによる仮説が果てしない旅を越え、鮮やかにその神髄を浮かび上がらせる。
宮城 聰(みやぎ・さとし)
1959年東京生まれ。演出家。SPAC-静岡県舞台芸術センター芸術総監督。東京大学で小田島雄志・渡辺守章・日高八郎各師から演劇論を学び、90年ク・ナウカ旗揚げ。国際的な公演活動を展開し、同時代的テキスト解釈とアジア演劇の身体技法や様式性を融合させた演出は国内外から高い評価を得ている。2007年4月SPAC芸術総監督に就任。自作の上演と並行して世界各地から現代社会を鋭く切り取った作品を次々と招聘、また、静岡の青少年に向けた新たな事業を展開し、「世界を見る窓」としての劇場づくりに力を注いでいる。14年7月アヴィニョン演劇祭から招聘されブルボン石切場にて『マハーバーラタ』を上演し絶賛された。その他の代表作に『王女メデイア』『ペール・ギュント』など。04年第3回朝日舞台芸術賞受賞。05年第2回アサヒビール芸術賞受賞。
静岡県舞台芸術センター(Shizuoka Performing Arts Center : SPAC)は、専用の劇場や稽古場を拠点として、俳優、舞台技術・制作スタッフが活動を行う日本で初めての公立文化事業集団である。舞台芸術作品の創造と上演とともに、優れた舞台芸術の紹介や舞台芸術家の育成を事業目的として活動している。1997年から初代芸術総監督鈴木忠志のもとで本格的な活動を開始。2007年より宮城聰が芸術総監督に就任し、事業をさらに発展させている。より多彩な舞台芸術作品の創造とともに、「ふじのくに⇄せかい演劇祭」の開催、中高生鑑賞事業や人材育成事業、海外の演劇祭での公演、地域へのアウトリーチ活動などを続けている。13年8月には、全国知事会第6回先進政策創造会議により、静岡県のSPACへの取り組みが「先進政策大賞」に選出された。また14年7月、フランスの世界的演劇祭「アヴィニョン演劇祭」に、『マハーバーラタ~ナラ王の冒険~』と『室内』の二作品が公式プログラムとして招聘され、称賛を浴びた。
◎各回、開演30分前よりプレトークを開催
ルーブル、オルセー、ポンピドゥーとともにフランスを代表するケ・ブランリー美術館。2006年、館内にあるクロード・レヴィ=ストロース劇場のオープニング作品として宮城演出『マハーバーラタ~ナラ王の冒険~』が上演され、大成功をおさめた。同館より再び熱いラブコールが寄せられ、今年6月、開館10周年記念作品として本作が製作上演される。quaibranly.fr
演出:宮城聰
台本:久保田梓美 & 出演者一同による共同創作
音楽:棚川寛子
空間構成:木津潤平
照明デザイン:大迫浩二
衣裳デザイン:高橋佳代
音響デザイン:加藤久直
美術デザイン:深沢襟
出演:赤松直美、阿部一徳、石井萠水、大内米治、大高浩一、加藤幸夫、榊原有美、桜内結う、佐藤ゆず、鈴木真理子、大道無門優也、武石守正、舘野百代、保可南、寺内亜矢子、野口俊丞、本多麻紀、牧山祐大、美加理、三島景太、森山冬子、山本実幸、横山央、吉植荘一郎、吉見亮、渡辺敬彦
舞台監督:山田貴大
演出部:横田宇雄
音響:合田加代、原田忍
照明操作:神谷怜奈
照明:加藤悦子
美術:佐藤洋輔、三輪香織、渡部宏規
衣裳:駒井友美子、大岡舞、清千草、高橋佳也子、川合玲子
ヘアメイク:梶田キョウコ、高橋慶光
字幕翻訳:スティーブ・コルベイユ
字幕操作:片岡佐知子
ナバホ族資料翻訳:佐藤聖
演出補:中野真希
技術監督:村松厚志
制作:大石多佳子、丹治陽、仲村悠希
シアタークルー(ボランティア):麻生雄大、小野英津子、久保田雄介、黒石梨奈、西川小春、西川直宏、平塚敬子、松本孝則、渡邉芙美子
音響・電源:株式会社三光
照明:株式会社アス
会場設営:アートユニオン株式会社
舞台照明機材提供:丸茂電機株式会社
製作:SPAC-静岡県舞台芸術センター
共同制作:ケ・ブランリー美術館
主催:ふじのくに野外芸術フェスタ実行委員会
支援:平成28年度文化庁文化芸術による地域活性化・国際発信推進事業
イグナシオ・キロス
大学時代から上代の『記紀』の文章に興味を持ち続けた私は、『古事記』の「稲葉の白兎」という、比較的有名な神話を考察する機会が何度もあった。しかし、主観的な印象にすぎないだろうが、この物語にはさまざまな謎や理不尽なことが多いため、深く取り組んだことはなかった。まずこの神話が『日本書記』や『風土記』には見られないことをいつも不思議に思っており、また兄弟の八十神に袋を背負わされた、白兎を助けた大穴牟遅神と、その後の「国作り」を行った大国主神とは、同じ神であるはずだが、その間には奇妙な存在としての隔たりを感じ、ひょっとしたらこの挿話がどこかから『古事記』に強引に挿入されたものなのではないかと思うこともあった。もちろんこれらの点に関しては、以前から神話学や人類学などの視点からさまざまな説があり、まさに難題である。しかし、レヴィ=ストロースによれば、大穴牟遅神とその兄弟との間に起きた対立は、多少の相違点もあるが、普遍的な神話に当たるものであるため、方法論上、特別な意味を考える必要がないであろう1 、と言われており、私はその論を読んで以来、その挿話に対する興味が薄くなってきていた。
しかし、ここ数年、『記紀』の諸記述における「コト」という語の意味を考察するという博士論文のテーマに取り組んだことをきっかけに、改めて「稲葉の白兎」についても考える機会を得た。普遍的な神話に属する物語なのかどうか、という問題はともかくとして、言語学的に原文そのものを分析すれば、その物語における日本的な特徴を掘り出すことができるだろうと思えるようになった。なぜなら、そこには私が対象とした「コト」という語の特殊な例文が見つかるからである。というのは、物語によれば、大穴牟遅神に助けられた白兎が、彼に「八十神は八上比売とは決して結婚しない。あなたがその姫を得るでしょう」と予言し、その直後に、八上比売が、八十神の求婚を拒否して、彼らの弟である大穴牟遅神に嫁ごうとする、という、予言のとおりの結果となった、とする個所があるからである。それに対して、八十神が怒り、弟の大穴牟遅神を殺そうとはかりごとをめぐらす、というように物語が進んでいくが、上の時点における、姫の発言を分析すると、八十神が妙な表現で拒絶されたことに気付かされる。原文の書き下しは「吾(あれ)は汝等(いましたち)の言(こと)を聞かじ」となっており、それは確かに「私はあなたたちの言葉(言うこと)を聞かない」という単純な意味であるが、その文には尊敬語の印は一つもないということが奇妙である。なぜそう思われるかというと、白兎は大穴牟遅神に自分が傷を負ったいきさつを語っている間、八十神に対して「命以(みこともち)」という、著しく高い身分を指す言葉を用いるからである。もちろん、兎は、八十神に対して身分の低いものであろうが2 、フランス語の拙論『上代日本における「コト」概念の意味と機能』で述べたように、「命以」(「お言葉」あるいは「ご命令」)という語は『古事記』の神代に限定されているだけでなく、イザナキ、イザナミ、アマテラスなどの「天津神」からの大事な命令を指すという、非常に限られた場合にしか見られない語である。したがって、その「命以」という語により、八十神が極めて身分の高い神であると思わされた読者は、その後、同じ八十神が八上比売に「汝等」(「あなたたち」もしくは「お前たち」)と呼ばれた記述を読むと、違和感を感じるのが当然である。その上、姫が言う「言」という語も、高くても平等な関係までしか指せなく3 、この文脈においては相当に不敬な言葉であるように思われる。『古事記』における八上比売の記述があまりにも乏しいため、その姫の身分を推し計ることは難しいが、「稲葉の八上比売」というので、せいぜい「国津神」という程度としか位置づけられないだろう。にもかかわらず、「天津神」と同等の身分であるはずの八十神に対して「お前たちの言葉は聞かない」と言っているように考えられるのである。それはただ求婚相手としての八十神への軽蔑を表わすのか、あるいは八十神の身分に関して何かより深い意味があるのだろうか。普遍的な神話に属する挿話だとしても、『古事記』全体で身分の上下関係の言葉が極めて細かく使いわけられていることを考えるなら、八上比売のこの不敬な言葉遣いは偶然なものではないに違いない。しかし、本当の原因は今のところは不明であると言うほかない。これはまた、八十神は身分的にどのような存在であるか、という問題を考えるためにもより深く研究する必要がある。
結局は、博士論文をきっかけに再読したこの挿話の謎を解いたどころか、皮肉なことにその謎を増やしてしまった結果になった気がする。それでも、謎を考えることには興味が尽きない。今後もこの研究を続けたいと思う。
1 Lévi-Strauss, Claude, Lʼautre face de la lune. Écrits sur le Japon (ouvrage posthume), Paris, Le Seuil, 2011, p. 84.
2 八十神に奴隷の境遇にされた大穴牟遅神に対しても、白兎は「汝命(いましみこと、または、ながみこと)」を用いる。
3 たとえば国譲りの挿話では、タケミナカタの神が、父の言葉を指すとき、「命」を、そして兄弟の場合には「言」を用いる。
≪筆者プロフィール≫
イグナシオ・キロス Ignacio QUIROS
スペイン生まれ。横浜市立大学・静岡県立大学非常勤講師。通訳としても活動(日本語、フランス語、英語)。パリ大学(フランス)ソルボンヌ高等研究実習院宗教学部博士課程修了。専門:東洋学、スペイン語教育。16年 “Sens et fonctions de la notion de « koto » dans le Japon archaïque”(上代日本における「コト」概念の意味と機能、博士論文)。