© Thibaut BARON
ジャンル/国名 | 演劇/カナダ、フランス |
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公演日時 | 5/7(土)15:00、5/8(日)13:00 |
会場 | 静岡芸術劇場(全席指定) |
上演時間 | 120分 |
上演言語/字幕 | フランス語上演/日本語字幕 |
作・演出・出演 | ワジディ・ムアワッド |
『頼むから静かに死んでくれ』や、『炎 アンサンディ』など人々の運命が複雑に絡み合う壮大なドラマを生み出し、世界的に注目される劇作家ワジディ・ムアワッド。本作は自らが出演する一人芝居としてアヴィニョン演劇祭で喝采を浴び、各国で上演を続けています。レバノンに生まれ、幼くしてフランスからカナダへ移った作家の生い立ちが作品にも色濃く表れており、内なる葛藤を宇宙にぶちまけるかのような衝撃的なラストは圧巻。混迷の時代、孤独や惑いを昇華する快作。
フランス語で「一人、孤独に」を意味するタイトル通り、孤独についての考察が張りめぐらされた作品。作者のワジディ・ムアワッド自身が舞台に立つ一人芝居だが、ビデオ映像などで視点を多面的にする工夫があちこちに仕掛けられている。劇中、主人公がロベール・ルパージュを研究対象として登場させていることでも分かるように、本作は“映像の魔術師”と言われる演出家ルパージュへのオマージュにあふれている。親しいはずの家族とすれ違う会話、レバノンでの幼き日の記憶、引っ越したばかりでベッドしかない部屋、前半に語られる何気ないエピソードが伏線となり、後半は無言の中でせりふ以上に雄弁な身体表現の妙を堪能できる作品でもある。
主人公のハルワンは35歳、引っ越したばかりの殺風景な部屋に一人。ロベール・ルパージュに関する博士論文を書き進めるも難航し、さらに指導教授から論文提出を早めるよう連絡が入る。親しいはずの父親とは電話でのたわいもない会話から母国レバノンでの戦争経験の話を持ち出され、けんか別れする始末。
ルパージュに会うため急ごしらえのロシア行きを準備している時、父が倒れる。最後に父と交わした言葉は「くそったれ」。行き詰まるハルワンの人生はどこに向かうのか。
ワジディ・ムアワッド Wajdi MOUAWAD
1968年レバノン・ベイルート生まれ。8歳で家族とともにフランスに亡命し、その後カナダ・ケベック州に移住。カナダ国立演劇学校で学び、2000年『沿岸/Littoral』でカナダ総督文学賞(演劇部門)を受賞、この作品にはじまる「約束の血」四部作をアヴィニョン演劇祭で発表し世界にその名を知らしめる。SPACでは、第一作『沿岸』を『頼むから静かに死んでくれ』として「Shizuoka春の芸術祭2010」にて上演。また第二作『火事 Incendies』が、09年『焼け焦げるたましい』としてピープルシアターで、14年には上村聡史演出による『炎 アンサンディ』として世田谷パブリックシアターで上演され大きな話題となったほか、10年『灼熱の魂』として映画化され、11年米国アカデミー賞外国語映画部門にノミネートされた。
◎各回、開演25分前よりプレトークを開催
※5/7(土)のプレトークには、『炎 アンサンディ』(2014年 世田谷パブリックシアター)の演出を手掛けた上村聡史氏が登壇します。
上村 聡史 KAMIMURA Satoshi
1979年(昭和54年)東京生まれ。2001年文学座附属演劇研究所に入所、06年に座員に昇格。09年より文化庁新進芸術家海外留学制度により1年間イギリス・ドイツに留学。戯曲を深く読み込み立体化する手腕に定評があり小劇場から大劇場、古典から現代劇と幅広く活動する。『炎 アンサンディ』『ボビー・フィッシャーはパサデナに住んでいる』の演出で第22回読売演劇大賞最優秀演出家賞、『アルトナの幽閉者』『信じる機械』の演出で毎日芸術賞第17回千田是也賞を受賞。演出を手がけた『炎 アンサンディ』は第69回文化庁芸術祭賞の大賞を受賞。
作・演出・出演:ワジディ・ムアワッド
ドラマトゥルグ・博士論文内容執筆:シャルロット・ファルセ
アーティスティック・アドバイザー:フランソワ・イスメール
演出補:イレーヌ・アフケール
舞台美術:エマニュエル・クロリュス
照明デザイン:エリック・シャンプー
衣裳:イザベル・ラリヴィエール
音響デザイン:ミシェル・モレール
音楽:マイケル・ジョン・フィンク
映像:ドミニク・ダヴィエ
アーティスティック・アシスタント:アラン・ロワ
舞台監督:エリック・モレル
音響操作:オリヴィエ・ルネ
照明操作:エリック・ル・ブレッシュ
映像操作:オリヴィエ・プティガ
プロデューサー・ツアーマネージャー:マリーズ・ボーシェーヌ
製作:オ・カレ・ド・リポテニューズ(フランス)
アベ・カレ・セ・カレ(カナダ・ケベック州)
共同製作:コリーヌ国立劇場(フランス)
ル・マネージュ・モンス(フランス)
シャンベリー・サヴォワ国立舞台「エスパス・マルロー」(フランス)
ロワール=アトランティック劇場「ル・グラン・T」(フランス)
マラコフ国立舞台「テアトル71」(フランス)
国立舞台「コメディ・ド・クレルモン=フェラン」(フランス)
トゥールーズ・ミディ=ピレネー国立劇場(フランス)
ル・テアトル・ドージュルデュイ(モントリオール、ケベック州)
協力:ケベック州政府在日事務所
後援:カナダ大使館
レバノン大使館
<SPACスタッフ>
舞台監督:内野彰子
舞台:降矢一美
照明:樋口正幸
音響:山﨑智美、清水慧、澤田百希乃
ワードローブ:大岡舞、高橋佳也子
通訳:石川裕美
字幕翻訳:藤井慎太郎
字幕操作:浅間哲平
制作:林由佳、坂本彩子、鶴野喬子
シアタークルー(ボランティア):ユイ・シェメイ
技術監督:村松厚志
照明統括:樋口正幸
音響統括:加藤久直
支援:平成28年度文化庁劇場・音楽堂等活性化事業
藤井慎太郎
作品の中でもふれられているように、ワジディ・ムアワッドの『火傷するほど独り』は、ロベール・ルパージュ、とりわけ『月の向こう側』に捧げるオマージュとなっている。『月の向こう側』は2002年に世田谷パブリックシアターで上演されているし、実は『針とアヘン』(2015年10月、世田谷パブリックシアター)、シルク・ドゥ・ソレイユ『トーテム』(2016年2〜5月、お台場ビッグトップ)、『887』(2016年6月、東京芸術劇場ほか)など、ルパージュが演出を手がけた作品の来日公演がこのところ相次いでいるのだが、詳しくはご存じない方も多いであろう。『火傷するほど独り』を少しちがう角度から理解するための補助線として、やや解説めいたことを記しておきたいと思う。
ロベール・ルパージュは、カナダはケベック州ケベック・シティに生まれ、同市の演劇コンセルヴァトワールに学び、その後もケベック・シティを本拠地として、1980年代から今日に至るまで世界の第一線で活躍を続ける演出家・俳優である。対するムアワッドはレバノンに生まれ、そこで幼少期を過ごした後、内戦を逃れてまずはフランスへ、さらにケベックへと家族とともに移住した。モントリオールのカナダ国立演劇学校に学び、まずケベックで、そしてフランス、さらにはヨーロッパにおいて、劇作家・演出家・俳優として高く評価されている。1957年生まれのルパージュはすでに1980年代には国際的に大きな成功を収めており、1968年生まれのムアワッドにとっては、一世代上の大いなる先輩にあたる。
『火傷するほど独り』の下敷きとなっている『月の向こう側』について簡単にふれておくと、この作品はルパージュ本人(後にイヴ・ジャックに引き継がれた)による一人芝居として、2000年に初演されてから、なんと2013年までツアーが続いたほどに人気を博した作品である。冴えない大学院生フィリップと、テレビの天気予報士として成功したアンドレの双子のような兄弟が登場し、フィリップの博士論文提出・審査とその失敗、二人の母親の死(ルパージュ本人の母の死の影響もそこには読みとられる)をめぐって、兄弟間の人間関係を巧みな映像の使用を交えて、ユーモラスにしかしほろ苦く描いた秀作であった。対照的な二人の関係は陰と陽、光と影のようであり、そこには地球と月の関係、月のこちら側と向こう側の関係(月はつねに同じ側を地球に向けており、向こう側を地球から見ることはできない)、そして、月の探査をめぐっても競っていた冷戦期のアメリカとソ連の関係、ひいては劇場の中の俳優と観客の関係が重ね合わせられていた。
『火傷するほど独り』も『月の向こう側』も、ケベックを起点として世界的に活躍する演出家本人が俳優として舞台に立つ一人芝居である。フィリップとハルワンは、いずれも博士論文を提出しようとしており、(自立・独立を求めて自らのアイデンティティを模索するケベックと同じように)自分のアイデンティティを模索している。『火傷するほど独り』に出てくる飛行機、電話、証明写真機などは、ルパージュ作品にも多く登場するモチーフである。ただし、フィリップの博士論文は否定されて終わるのに対して、ハルワンの博士論文はきわめて高く評価されるように、両作品の間には大きなちがいも存在している。フィリップとアンドレの二人は、一部は姉のレイラに引き継がれつつも、ハルワンの中に融合し、ルパージュ作品の母子関係は、ムアワッドのもとでは父子関係に、ケベックの話題はレバノンのそれに、映像は絵画(あるいは映像から絵画への移行)に置き換えられているといえる。
ところで、『火傷するほど独り』のフランス語原題は『Seuls』であり、「一人、単独者」を表し、イタリア語のsolo とも語源を同じくする、seulの男性複数形となっている(ちなみに日本語タイトルはSPAC芸術総監督である宮城聰氏による命名だという)。唯一人、単独でありつつも複数であることは何を意味するのだろうか。人間は誰しも身体は一つでありながら、自分のうちにいくつもの異なる自分を住まわせているということか。あるいは、ほかの誰かと一緒にいるときでさえ、突き詰めれば孤独であるということか。移民社会であるケベックもまた、一つでありながら多様であるといえるだろうし、一人芝居、ソロ作品において複数の役を演じる俳優はなおのこと、そうした複数的な単独存在に近づくだろう。答えはもちろん一つではないのだが、ルパージュとムアワッドという、唯一無二の才能二人の存在をその複数形の中に読みとったとしても、それもまちがいではないと思うのである。
≪筆者プロフィール≫
藤井 慎太郎 FUJII Shintaro
早稲田大学文学学術院教授。フランス語圏・日本を中心に舞台芸術の美学と制度を研究する。主な著作に『ポストドラマ時代の創造力』(監修)、『芸術と環境 劇場制度・国際交流・文化政策』(共編著)、『演劇学のキーワーズ』(共編著)など。