© Pascal VICTOR
ジャンル/都市名 | 演劇/パリ |
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公演日時 | 4/28(土)16:00、20:30、4/29(日)16:00、4/30(月・祝)20:30 |
会場 | 舞台芸術公園 屋内ホール「楕円堂」 |
上演時間 | 60分 |
上演言語/字幕 | フランス語上演/日本語字幕 |
座席 | 全席自由 |
演出 | クロード・レジ |
制作 | アトリエ・コンタンポラン |
2010年『彼方へ 海の賛歌(オード)』で初来日し、2013年にはSPACとの共同制作でメーテルリンクの『室内』を演出し世界ツアーも含め大きな反響を呼んだフランスの演出家、クロード・レジ。93歳で演出した本作は「最後の作品になる」という。選ばれた作家は、夭折したオーストリアの天才詩人ゲオルク・トラークル。その詩は魔術的ともいうべき音楽性、そしてあまりにも深い憂鬱に満ちている。宵の大海を思わせる薄明のなか、シャーマンのように佇む俳優の身体がほのかに現れ、その姿はやがて詩の韻律とともに脳裏に深く刻まれていく。レジが愛してやまない漆黒の空間「楕円堂」で、深遠なる演劇があなたを包み込む。
SPACとの関係が深まるまでは、日本では知られざるカリスマだったレジ。しかしその演出家としての軌跡は輝きに満ち、メーテルリンクやデュラス、ハロルド・ピンターからヨン・フォッセまで、劇作の世界に地殻変動を起こした現代作家の作品に斬新な光を注いできた。27歳の若さで命を絶ったトラークルの詩は、同時代の哲学者や芸術家らを虜にし、近年再び注目されている。一切の妥協なく戯曲の言葉と格闘してきたレジが、トラークルの狂おしくも豊かな詩の世界を、ヤン・ブードーという俳優のシャーマンのような身体を通じて、観る者の脳裏に映し出す。
突出した文才に恵まれながらも、挫折と罪悪感に苛まれるトラークルの数奇な人生を写したかのような散文詩。
夕暮れ、夜、暗い部屋。没落する一族の、痛みと悲しみを抱えた少年。彼の周りには明るい花々や愛してくれる人々はなく、枯れた木々や冷たく砕ける石、そして獣ばかりがいた。欠落した世界の中で汚れ、錯乱し、朽ち、消えゆこうとする少年の前に妹が現れる。
クロード・レジ Claude RÉGY
1923年生まれ。演出家。独自の理念で、マルグリット・デュラスら同時代の作家の作品を上演する。81年以降パリ国立高等演劇学校で教鞭を執り、著書によっても若い演出家や俳優に影響を与え続けている。SPACではフェルナンド・ペソア作『彼方へ 海の讃歌』(2010年)の上演を経て、モーリス・メーテルリンク作『室内』(13年)を共同製作し、世界各国でツアーを行った。
ゲオルク・トラークル Georg TRAKL (1887~1914)
1887年オーストリア・ザルツブルク生まれ。詩人。幼少より文学に傾倒し、兵役を終えた1912年から詩作が定期的に雑誌に掲載され、1913年には作品集『詩集』を出版。第一次大戦が始まると衛生兵として戦地へ赴くが、ピストルで自殺未遂を図り、クラクフの精神病院に強制送還される。鬱に悩まされ、薬物の過剰摂取により27歳の若さで死去。活動期間は短いものの、ヴィトゲンシュタインから支援を受けるなど同時代の芸術家からも支持され、表現主義の代表的な詩人として知られている。
演出:クロード・レジ
作:ゲオルク・トラークル
仏語訳:ジャン=クロード・シュネデール、マルク・プティ(ガリマール社)
出演:ヤン・ブードー
演出助手:アレクサンドル・バリー
舞台美術:サラディン・カティール
音響:フィリップ・カキア
照明:アレクサンドル・バリー
照明助手・操作:ピエール・グラッセ
通訳・字幕:浅井宏美
制作:ベルトラン・クリル
製作:アトリエ・コンタンポラン
SPACスタッフ
舞台監督:内野彰子、佐藤洋輔
舞台:折本弓佳
照明:藤田隆広 久松夕香 佐藤花梨
照明操作:小早川洋也
音響:林哲也
ワードローブ:駒井友美子
通訳:山田ひろ美
制作:高林利衣 佐藤亮太
技術監督:村松厚志
照明統括:樋口正幸
音響統括:加藤久直
助成:在日フランス大使館/アンスティチュ・フランセ日本
支援:平成三〇年度 文化庁 国際文化芸術発信拠点形成事業
協力:京都造形芸術大学 舞台芸術研究センター
演出の都合上、開演後のご入場、また再入場をお断りさせていただきます。ご了承ください。
中村 朝子
今年は第一次世界大戦終結から100年にあたる。人類史上最初の世界大戦となったこの戦争には多くの若者たちが戦場に駆り出された。ハプスブルク帝国軍の衛生部隊の薬剤試補として東方戦線に送られたトラークルもその1人であった。戦争勃発の年の秋、彼はクラクフの郊外の小さな町、グロデークで参加した戦闘の残酷さに耐えきれず、衝動的に自殺を図り、それを阻まれ、精神鑑定のために収容された野戦病院で、隠し持っていたコカインの過剰摂取により、事故とも自殺とも思われる死を遂げた。享年27歳であった。
富裕な商人である父と、家族に背を向け、古美術品の収集に没頭する母の間に生まれたトラークルは、早くから詩作に目覚める。他方でごく若い頃から飲酒や薬物に耽溺し、薬学を修めた後も定職には就くことはできなかった。また容貌も性格も芸術的感性においても詩人に酷似し、長じてピアニストとなった5歳年下の妹との恋愛にも苦しんだ。
散文詩「夢と錯乱」は、おそらく詩人の死の年である1914年の初頭に成立し、没後に刊行された第2詩集『夢のなかのセバスティアン』の巻末に収められた。トラークルの他の詩と同様に暗く憂愁に満ちたこの作品は、散文詩として前述したような詩人の伝記的要素が色濃く映し出された筋を持つ。この詩の豊かな音楽性は何よりも、いくつもの同じ語や詩句、モチーフ、イメージが、何度も繰り返され、変奏され、絡み合わされることによって生み出されている。特に「呪われた種族」という詩句の繰り返しは、詩全体に通奏低音のように響く。詩の「わたし」は、今や滅亡や死に瀕しつつあるこの「呪われた種族」の一員であることを嘆く。この詩を自伝的に読むならば、「呪われた種族」とは、傾きつつある詩人の一家を表しているとも、あるいは激化する民族問題を抱え、旧態依然とした政治および経済機構から抜け出せず、今や解体を目前にした詩人の祖国ハプスブルク帝国を指すとも考えられよう。さらには科学技術による進歩を標榜し、近代化を過激に推し進めた結果、既存の価値観や世界観が大きく揺らぎ、混沌たる状況に陥った西欧世界全体を意味しているとも捉えられよう。だがそれだけではない。この詩の冒頭と最後には、まるで詩を枠取るように、鏡の中から現れる妹と兄である「わたし」との出会いのモチーフが繰り返されている。この妹との出会いははっきりと官能的な色合いを帯び、それゆえに「わたし」を滅亡へ導く罪として描かれている。この罪は、近親相姦というキリスト教の倫理に基づく社会的禁忌の侵犯や、官能自体の持つ、理性では制御しきれない、人間を破滅させる暴力性を意味するだけではない。「種族」と訳したドイツ語Geschlechtは、生物界で人類をもその1つとして区別する「類」を、その人類をさらに様々に細分化する種族、人種、部族、家族を、さらには男女の性の区別とそこから生じる性衝動を表すのである。つまりGeschlechtとは様々な分裂、不一致を示す語であり、また破壊的にもなりうる性の力を指す語である。そうであれば、ここで「わたし」がそれに属するとされる「呪われた種族」とは、他者との様々な相違、不一致により相互に理解しあえず、疎外感に苦しむ存在と言える。それはこの時代の人間全体を、自分自身の中にある様々な分裂、矛盾ゆえに自己同一性をも失った存在を映し出すものとして普遍的な意味を帯びる。私たちはこの詩の中に、詩人の個人的な苦悩ばかりでなく、他者との疎外や自己の分裂に陥った人間すべての担う苦悩を感じ取る。だとすれば詩の最後に描かれる「死んでいく青年」となった妹、つまり両性具有的存在となった妹の姿には、兄妹の性愛的な罪の昇華だけでなく、あらゆる分裂が消えることにより、他者との疎外や自己分裂の苦悩から人間が救済されることへの希望が表されているのではないだろうか。だがこの詩が成立して1年も経たないうちに、分断や対立の極限状況である戦争はトラークルの生命を奪った。「夜は呪われた種族を飲み込んだ」というこの詩の結語がすでにそれを予言したかのように。そして彼の最愛の妹もまた、彼の死の3年後にピストル自殺によって25年の短い生涯を閉じた。
この詩は、今の私たちにも通じる苦しみに正面から向き合い、絶望においてもなおそこから救われることへのかすかな希望を持ち続けた詩人の悲痛な声を響かせ、それがこの詩を読む私たちの心を強く揺さぶるのだ。
<筆者プロフィール>
中村 朝子 NAKAMURA Asako
上智大学文学部ドイツ文学科教授。訳書に『トラークル全集』『ゲオルク・トラークル 生の断崖を歩んだ詩人』『パウル・ツェラン全詩集』『インゲボルク・バッハマン全詩集』などがある。