© Moon Kwanill
ジャンル/都市名 | 演劇/ソウル |
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公演日時 | 4/27(土)15:30、4/28(日)15:30、4/29(月・祝)16:30 |
会場 | 舞台芸術公園 屋内ホール「楕円堂」 |
上演時間 | 80分 |
上演言語/字幕 | 韓国語上演/日本語字幕 |
座席 | 全席自由 |
翻案・演出 | イム・ヒョンテク |
製作 | ソウル・ファクトリー |
韓国演劇界の旗手イム・ヒョンテクが、ギリシア悲劇『王女メディア』を情感豊かな韓国歌舞劇に仕立て上げた。伝統芸能パンソリの歌や太鼓が響き、動きにはダイナミックな武術の所作が盛り込まれ、情趣あふれる空気をまとう。イムは“嫉妬に狂う苛烈な女性メディア”とその内側に潜む“もう一人のメディア”を舞台に現出させ、憎しみと愛情の狭間で引き裂かれる心の葛藤を解きほぐす。エネルギッシュな俳優たちにより、喜怒哀楽のすべてが実に生き生きと表現され、観客はそこに自分と重ね合わせられる「等身大のメディア」を発見することだろう。海外でも再演を重ねる代表作で、ソウル・ファクトリー日本初上陸となる。
無邪気で喜びに満ちた幼少期を過ごすメディアとイアソン。成長したふたりは互いに愛し合うようになり、2人の子どもを授かる。しかし幸せな日々も束の間、富と権力に目がくらんだイアソンは、メディアを捨てクレオンの娘との結婚を承諾してしまう。絶望のなかで怒りと哀しみとに引き裂かれ、復讐を決意するメディア。激しい葛藤にさいなまれながらも、ついに自らにも苦しみを与えることになる恐ろしい決断へと至る…。
イム・ヒョンテク LIMB Hyoung-Taek
ソウル生まれ。劇団ソウル・ファクトリー芸術監督。ソウル芸術大学教授。ニューヨーク・コロンビア大学にてアンドレイ・セルバン、アン・ボガート両氏に師事。1994年、同大学出身の演出家を中心としたカンパニーLITEを設立し、舞台と映画の両方で演出・出演を続けヨーロッパでも公演を行う。2000年から拠点をソウルに移し、『真夏の夜の夢』での伝統と現代ならびに東西の美学を独自に融合させた演出により、一躍国内でも認められる。『メディアともう一人のわたし』で、07年第19回カイロ国際実験演劇祭最優秀演出賞を受賞。18年、韓国・平昌オリンピックの文化プログラムにおいてディレクターを務め、日中韓共同製作『ハムレット・アバター』を演出した。
◎プレトーク:各回、開演25分前より
◎アーティストトーク:4/29(月・祝)終演後
翻案・演出:イム・ヒョンテク
原作:エウリピデス
出演:イ・チェギョン、イ・ソン、ジョン・ウイウク、キム・チュングン、イ・スヨン、イ・ミスク、ペク・ユジン、キム・ヘミ、キム・ミンジョン、ユン・ギョンロ、パク・スミン
照明・技術監督:チョン・テジン
音楽監督:ユン・ギョンロ
映像監督:キム・ミン
舞台美術:ペー・ソギョン
衣裳:チェ・スンファ、イ・ダヘ
演出助手・音響:ペク・トジン
振付:キム・ソイ
演出助手:ソン・ユジン、キム・ヘミ
制作:パク・ジェヨン
製作:ソウル・ファクトリー
助成:韓国文化芸術委員会
<SPACスタッフ>
舞台監督:三津久
舞台:杉山悠里
照明:吉嗣敬介、花輪有紀
音響:林哲也
ワードローブ:河合玲子、佐藤里瀬
美術担当:渡部宏規
通訳・字幕翻訳:藤本春美
字幕操作:杉山りか(民団静岡)
制作:梶谷智、北堀瑠香
技術監督:村松厚志
照明統括:樋口正幸
音響統括:右田聡一郎
助成:文化庁 国際文化芸術発信拠点形成事業
後援:駐日韓国大使館韓国文化院
◎未就学児との入場はご遠慮ください。
コ・ジュヨン
演出家イム・ヒョンテク氏が学業と演劇活動の拠点としていたアメリカから韓国に戻って来たのは2000年頃だった。同年代の演出家と比べ、意外だが韓国での活動は長くはない。にもかかわらず、彼と劇団ソウル・ファクトリーが、韓国演劇界でその独自の作風を認められるまで、それほど時間はかからなかった。『メディアともう一人のわたし』を観劇する観客が、演出家イム・ヒョンテクと劇団ソウル・ファクトリーの作品を理解する(理解を願って)一助になるであろう、いくつかのキーワードを紹介しよう。
[古典]
まず、イム・ヒョンテクの作品年譜をみると、その多くが誰もが一度は読んだり、手に取ったことがある古典テキストがベースになっている。今回、「ふじのくに⇄せかい演劇祭2019」で公演される古代ギリシャの劇作家エウリピデスの「メディア」をはじめ、ロシアの劇作家チェーホフの「三人姉妹」や「桜の園」、イギリスの劇作家シェイクスピアの「ハムレット」、18世紀フランスの劇作家ピエール・ド・マリヴォーの「いさかい」などの一連の戯曲、ロシアの作家ドストエフスキーの「白痴」や、日本の朝鮮植民地支配の時代に活動した韓国の詩人ユン・ドンジュなど、すべての作品が古典文学から始まっている。古典がこれまで綿々と引き継がれてきた理由と価値を認め、今目の前にある具体的な歴史や事件よりも、これらを通じて人間の普遍性と実存を問いかけようとする彼の演劇的嗜好は、現時点での古典の再解釈として現れるのである。
[身体]
イム・ヒョンテクの演劇的試みである古典テキストの再解釈の重要なツールは「身体」だ。時に説明的で、その意味が矮小化される恐れのある言葉は、俳優の「身体」を通じて「今、ここ」での意味と表徴へと変換される。彼はあるインタビューで、「テキストの解釈に先立ち、作品のテーマを俳優自身が身体によって解釈/表現するようにさせる」と創作の過程を説明したことがある。これは「俳優」を演出家の観点をそのまま遂行する受動的な存在ではなく、作品の解釈と観客を中継する主体として舞台を導く役割と認識するところから始まっている。このような過程をとるには、「身体」という媒体を通じて創作を進められるほどのチームワークと共通体験が前提となる。この面からも多様な舞台を共に踏んできたこの劇団独自の「身体」表現に注目する必要があるだろう。面白いのは、イム・ヒョンテク自身が俳優出身であり、現在も彼を必要とする作品があればその舞台に俳優として立ちたいと熱望していることだ。
[声]
舞台で俳優が「今、ここに」確かに存在していることが確認できるのは、「身体」だけではない。劇団ソウル・ファクトリーの作品に欠かせないのが、俳優の身体から吹き出る声、そして時として歌や音楽だ。イム・ヒョンテクの作品は、時には音楽劇と呼ばれることもある。西洋の古典を多様な方法論で解釈しながら、韓国の伝統的なソリ(ヴォイス)/音楽を、あるいはその声の源がどこの地域/国なのかにかかわりなく現代音楽を、作品をなす重要な要素として借用して配置するのは、この演出家の主要な方法論のひとつだ。特に『メディアともう一人のわたし』の場合、物語性が強く、声音そのものが身体の奥深くから引き上げられる、「ハン(恨)」という情緒に代表されるパンソリと、静的で澄んだ音色で純粋な悲しみを表現するのに使われるチョンガ(正歌)が主なモチーフとして使われている。
『メディアともう一人のわたし』は新作ではない。2006年の初演以来、エジプト、チリ、インド、ニューヨークで公演し、ソウルでも何度も再演されてきた作品だ。しかし、息づく生命体である舞台芸術が、単に繰り返され、再生されるわけがない。演出家も、俳優も、初演から10年以上もの時間を生きてきた。そして、観客もやはり2019年を生きている。これまで熟成されてきた『メディアともう一人のわたし』が、今、日本で生きる観客にどんな生命力を持って完成するのか期待したい。
<筆者プロフィール>
コ・ジュヨン KOH Jooyoung
公演芸術インディペンデントプロデューサー。韓国だけでなく、日本のアーティストの作品、韓日合同製作などをプロデュースしている。翻訳家としては前田司郎、藤田貴大、神里雄大の戯曲を初めて韓国に紹介している。