SPAC文芸部 横山義志
2016年4月6日、ワジディ・ムアワッドがパリのコリーヌ国立劇場の芸術監督に選出され、即日任命された。けっこう胸が熱くなるニュースだった。ムアワッド家は1976年、ワジディが8歳のときに戦火のレバノンから親に連れられてフランスに渡り、15歳のとき、滞在許可証の更新許可が下りなかったため、再亡命を余儀なくされたという過去があった。
この芸術監督就任のため、今年のツアーはいくつかキャンセルせざるをえなくなったという。静岡には来てくれるそうで、ちょっとほっとした。いつか舞台芸術公園を案内したとき、大きなジョロウグモに夢中でカメラを向け、『ファーブル昆虫記』について熱く語ってくれたワジディの姿を思い出した。今年こそは昆虫採集に、と思ってくれたのかも知れない。
ムアワッド一家は1983年、同じフランス語圏のカナダ・ケベック州に再亡命した。それからわずか十数年後には、ワジディはケベック州を代表する演劇人になっていた。ワジディの作品ではケベック方言も使われていたが、ワジディ本人の「フランス訛り」のフランス語を聞いていると、なんだか複雑な気分だった。2012年からは主にフランスに住んでいる。フランス人女性と出会ったこともあるが、ケベックではすっかりスターになってしまったので、フランスの方がまだ静かな環境で仕事がしやすいというのも理由の一つらしい。
レバノンは一時期フランス領だったこともあり、今でもフランスとの交流が多い。フランス語で教えている大学もあり、フランス語話者が少なくない。フランスとの交流は十字軍時代にまで遡ることができる。11世紀、レバノン山地周辺に住むマロン派キリスト教徒は、エルサレムに入城する十字軍の「フランク人」たちを歓迎した。それから900年近くを経て、第一次大戦後にフランスがシリア地方を占領したとき、フランスはキリスト教徒が多いレバノン山地をシリアから分離させた。これが今のレバノンの原型となる。つまりレバノンという国は、中東では少数派のキリスト教徒が多数派となりうるような国として作られたのである。レバノンのアラブ系キリスト教徒たちは商人としてアラブ世界と西洋世界をつなぐ役割を担い、商業都市・文化都市として栄えたベイルートは「中東のパリ」とも呼ばれた。だが、1970年代にパレスチナ解放機構(PLO)が流入することで宗派間の勢力均衡が破れ、長い内戦がはじまることになる。
内戦を経験したレバノン人は自分の宗教についてはあまり語りたがらないが、ワジディはあるインタビューで、少しだけ自分の出自について語っていた。キリスト教徒の商人の家に生まれたという。親戚には「フランソワ」、「パスカル」といったフランス的なファーストネームを持つ者も少なくなかった。そのなかで、自分の「ワジディ」といういかにもアラブ的、レバノン的なファーストネームが、幼い頃はあまり好きになれなかった。「ワジディ」は「存在」や「生命」を表す言葉に由来する。
今にして思えば、ワジディが世界的に重要な劇作家になったのには、ケベックへの二度目の亡命体験が大きかったのではないか。フランスには、言語を超えて読まれ、上演されるような「物語」を書く劇作家が少ない。一つには、フランス語への愛着と信頼が大きすぎるためだろう。だが北米ではフランス語はマイナー言語の一つに過ぎない。そしてヨーロッパほどに「物語の解体」が常識になっていたりもしない。
「母語」だったはずのアラビア語レバノン方言はほとんど話す機会がなかったとしても、舞台作品でレバノン時代の記憶を扱うようになると、当然そこには「翻訳」という感覚が出てくる。アラビア語の詩をフランス語に移すことは可能なのか。ワジディの作品を見ていると、それがあたかも「自然」なことのように思えてくる。ワジディの記憶の底におぼろげに眠るアラビア語の響きに明瞭な形をもたせようとすると、フランス語の形を取って出てくるのかも知れない。ワジディの作品には、物語も詩も翻訳しうる、という確信のようなものが見える。これは言語とアイデンティティという問題についての、ワジディなりの一つの回答なのではないか。言葉は境界を作るものではなく、人をつなげるものでなければならない、ということ。
ワジディの作品はフランスの高校でもよく読まれたり上演されたりしていて、若い世代のファンが多い。2009年のアヴィニョン演劇祭で、メイン会場の法王庁中庭で、11時間かけてワジディの三部作が上演されたとき、二十代の観客たちが明け方に熱狂的な歓声を送っていたのを思い出す。今回コリーヌ国立劇場の芸術監督に選ばれたのにも、「若い観客を呼び込みたい」という文化省の意向が大きかったのではないか。
以前静岡で上演した『頼むから静かに死んでくれ』も、今回の『火傷するほど独り』も、なんだか胸を締め付けられるような話だ。こういう演劇体験というのは、今本当に少なくなっている気がする。あとから考えると、「物語」をつくる技術もすごいと思うが、見ている間はそんなことは考えられず、とにかく没頭してしまう。どうしても伝えたいことがあるからこそ、語りの技術を日々磨いてきた作家なのだと思う。
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日本初演
『火傷するほど独り』
作・演出・出演:ワジディ・ムアワッド
5/7(土)~8(日)
静岡芸術劇場
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