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『シミュレイクラム/私の幻影』 ~今とはちがう「私」を選び取ること~

SPAC文芸部 横山義志
 
アルゼンチン人の男性ダンサーが女形として歌舞伎舞踊を踊り、日本人の男性ダンサーがスカートをはいてフラメンコを踊る。静岡駅に「リアルorフェイク?」という看板がありますが、どちらも、話だけ聞くと、かなり「フェイク」な感じがします。でも世界的に評価されているダンサーによる踊りを実際に見てみると、きっと話に聞くのとはだいぶ違う印象を受けるでしょう。

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▲静岡駅にある「リアルorフェイク?」の看板
 
そもそも、踊るということは「リアル」なのでしょうか、それとも「フェイク」なのでしょうか。盆踊りにしても阿波踊りにしても、踊りには多くの場合、何かしら「型」があります。この「型」はふつう、「自分のもの」ではありません。誰か振り付けた人はいるのでしょうが、誰がはじめたのかもよく知らないまま受け継がれ、踊られていきます。この意味では、踊りというのはたいていの場合は「自分のもの」ではないのかも知れません。

そしてある「型」を踊るとき、人はふだんの自分の人格とはちがうものになっています。ふだんとは違う目つき、手つき、足の運びをしています。カラオケで歌を歌うときだってそうですよね。

でもよく考えてみれば、「ふだん」の日常生活でも、人はいろんな役を演じているような気もしてきます。会社員の役、公務員の役、パートタイマーの役、上司の役、部下の役、学生の役、お父さんの役、お母さんの役、息子・娘の役等々。目つき、手つき、足の運びといった振付から節回しや歌詞にいたるまで、それぞれの役に合ったものを、誰からともなく学んで、踊ったり歌ったりしています。「男」にも「女」にも、それぞれに合った振付や節回しが用意されています。

Entre la Vida y la Muerte homenaje al alma de Federico2
▲ふじのくに⇄せかい演劇祭2013で上演された『生と死のあわいを生きて ―フェデリコの魂に捧げる―』
 
「シミュレイクラム」というのは「幻影」という意味ですが、幻影には必ずしもオリジナルや本物・本体があるとは限りません。全くオリジナルがないような幻影も、人間の社会のなかで一定の機能や影響力をもっているのではないか。この言葉はそんな意味で使われています。

「私」が「私」になる、というのは、きっとそんなシミュレイクラムの振付を少しずつ選び取って、あるいは選び取らされて、憶えていくことなのでしょう。

でも、「私」はもうちょっと別の「私」でもありえたかも知れません。

ちょっと別の「私」を選び取ることは、かなり勇気がいることです。でも、それを選び取ることで、世界がもっと楽しいものに見えてくるかも知れません。

別の「私」になるために、生涯を賭けて自分を鍛え抜いてきた二人の出会いに触れると、きっと今とはちがう自分を選び取る勇気が湧いてくるはずです。
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▲左)ダニエル・プロイエットさん、右)小島章司さん

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『シミュレイクラム/私の幻影』
演出・振付:アラン・ルシアン・オイエン
歌舞伎舞踊振付/音楽『Natsue』:藤間勘十郎
出演・振付:小島章司、ダニエル・プロイエット
製作:ウィンター・ゲスツ
5月3日(木・祝)12:30開演、4日(金・祝)12:30開演
静岡芸術劇場
*詳細はこちら
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